Adoついに顔出しか!?「よだか」のMCなどについて


dome tour 2025 “よだか” 行きましたか? 私は東京ドームに参戦してきました。

今回はキラキラペンライトを振りながら応援してきたのですが、途中のMCを聞いて「しゃべるの上手くなったな」と感じつつ、同時に “あれ?” と思う曖昧なニュアンスの発言がいくつかありました。

Ado本人も「こいつ何言ってるんだって思われるかもしれないけど」的な前置きをしていた気がします。

その内容を聞いて、私のテレパス能力が「これは顔出しの布石では?」と反応したので、今回はその考察をまとめます。

目次

Adoと“自分”の乖離

MCでは、

Adoという名前がどんどん大きくなる”

“でも自分自身は普通の人”

というニュアンスの話が出ていました。

さらに外見に対するネガティブ感、そして「そういうのはもうやめたい」という話もあったように感じました。

この “名前の大きさと自分とのギャップ” に疲れた、またはその差を埋めたい気持ちがあるとすれば、 顔出し=乖離を解消する手段 と考えても不自然ではありません。


“よだか”が特別なライブになると言っていた

「このライブは後々特別なものになる」 という発言がありました。

これは “何かの区切り” を示唆している可能性があります。 例えば:

次回ライブから顔出し

名義変更や新フェーズへの移行

スタイル転換

など、何かしら大きな変化を予想してもおかしくない内容でした。


セトリの変化が“心境”を映している?

セトリにも強くこだわったと言っていた通り、今回の流れにはテーマを感じました。

序盤はいつもの激しめのAdoらしさ。 そこから徐々に明るい曲へ。 ラストが 「いばら」→ アンコール終わりが「心という名の不可解」。

この並びは、

自分の迷い

別方向への転換

次に進もうとする決断

こういった心境を象徴しているように感じました。


顔を隠すことの限界

顔を隠し続ける活動には、技術的な制約が多いです。

ライブ会場の特殊設備が必要

海外公演での制限

表現の幅が広げにくい

これらが“挑戦の足かせ”になっていると、本人も感じているのかもしれません。


まとめ

以上が私の考察ですが、あくまで全部 私のテレパス能力の産物 なので、話半分で受け取ってください。

顔出ししてもしなくても、Ado本人が決めた方向でいい。 ただ、MCから伝わってきたのは「何かしらの決意はすでに固まっている」という空気でした。

最後にAdoちゃんに伝えたいこと。

ここまで“歌い方”に命を込めて、100点どころか120点の表現をしてくる歌手はAdoちゃんだけです これからも応援しています